平成18年7月2日
毎週金曜日の朝、私はスクールカウンセラーとしてある中学校の集中下足センターの前に立ち、登校してくる中学生に朝の挨拶をします。友だちと連れだっておしゃべりに夢中な子、いつも遅刻ギリギリに走り込む子、重い鞄を抱えて朝からすでに足取りが重い子、服装違反を注意されるのがわかっていながら毎回先生の前に現れる子、元気よく挨拶をしてくれる子、目をそらしてそそくさと走り抜ける子、とさまざまです。
AさんはいつもBさんと一緒に楽しそうに登校していたのに、今日は1人で下を向いてやってきました。担任の先生によれば、今週の水、木と学校を休んでいて今日3日ぶりに登校したとのこと。先生に勧められて放課後相談室にやってきたAさんは、火曜日の夕方近くのスーパーで会ったBさんが「黙って通り過ぎた」ため、「無視されたと思った」ので「辛い気持ちになって」学校に「来れなくなった」と言うのです。
Bさんが「黙って通り過ぎた」という出来事(事実)に対して、Aさんは、「無視された」と思ったので、辛い気持ちになっています。しかし、Bさんは本当にAさんを無視したのでしょうか?他に気を取られていただけかもしれないし、疲れてぼーっとしていただけかもしれませんね。「気づかなかったのだろう」と思えば、「辛い気持ち」になることもなく、学校に「来れなくなる」こともなかったでしょう。
このように「Aさんが通り過ぎた」という同じ出来事を体験しても、受け取り方-「無視された」と思うか、「気づかなかった」と思うか-によって、気持ちが違ってきて-「辛い気持ち」になるかどうか-、その後の行動-諦めて関係を切るかもう1度声をかけてみるか-が異なります。
私たちの気持ちや行動を左右するのは、実は出来事そのものではなくてそれをどのように捉えたかという受け取り方です。外から見えるのは、出来事と行動だけで、これくらいの出来事でどうしてこんな行動を取るのかが理解しがたいことも多いのですが、「無視されたと思ったのかな」というように受け取り方を想像して考えてみると、随分わかりやすくなります。
通常わたしたちがこころと呼んでいるものの仕組みは、外からは見えないものごとの受け取り方によって気持ちが決まるという過程ということができます