「Nっ子クラブ カンガルーの親子」を立ち上げてちょうど1年になりました。
この会は1500g未満で産まれた赤ちゃんのための親子の会です。1回目の会に集まったのが9組。気がつけばこれまで約40人のお母さんたちと出会いました。毎月1回、筑紫保健福祉環境事務所で賑やかにおしゃべりをしたり、勉強会を行ったりしています。
会の目的は「まずお母さんが元気になること」なによりもお母さんの元気が子供たちの成長にとって一番。そして、その元気を他のお母さんに伝えたい、元気の連鎖を広げたいというもの。ちょっとかっこよく言うとピアカウンセリングを目的にしています。つまり、同じ立場の者がお互いのことを話すことで不安を少しでも解消し、前に進んでいきたい。
でも、正直いうと迷いがありました。トラブルを抱えた出産・育児というデリケートな問題にどこまで対応できるのかと・・・
でもその迷いは1回目の会が終わった後、なくなりました。
初めて集った9人のお母さん。お互いの出産体験を話しました。双子の一人を亡くした人。乗っていたタクシーの事故が原因で陣痛が始まった人。体外受精でようやく授かり、早産した人。出産したばかりのNICUに面会に通うお母さん、NICUを退院し家庭での不安な育児の毎日のお母さん、高校生のお母さんまで・・・。みんな、涙を流しながら自分のことを話していました。
多くのお母さんは、早産の原因は自分のせいだと責めています。そして、他の人にはなかなか分かってもらえない気持ちを押し殺しながら過ごしています。なかにはひどい産後ウツに悩まされる人もいます。実際に、何ヶ月もNICUに通うことができなくなったという経験をした人もいます。子供たちの後遺症・障害を宣告されてしまう人もいます。
小さな小さな命を目の前にして、不安とどうすることもできないことへの苛立ち。退院後も病気や発達の遅れなど不安材料はいくつもあります。
多分、それまで心の奥底にしまいこんでいたものが、どっと溢れてきたのだと思います。
後日、NICUの看護師長さんから、参加したお母さんの顔が変わったと伺いました。
たいていの人は、こんなに仲間がいることに驚きます。こんなに400gや500gといった1000gもなく産まれた赤ちゃんが集まるという所は少ないと思います。会に参加してから泣かなくなった、迷わずもっと早く参加すればよかったという人も・・・。参加する回数が増えるたびにお母さんたちの表情が変わっていくのが分かります。
産まれた病院もいろいろ、福岡都市圏、久留米、筑豊、北九州、佐賀からも仲間が集まってきます。(遠方の方でホームページ上の掲示板で仲間と交流している方もいます)
とにかくワイワイ、ガヤガヤと賑やかな毎月の定例会。これからも、みんなが会で得た情報や元気を、育児につなげていければいいなと思っています。
かくいう私もたくさんの元気をもらって家に帰ります。
私だって不安の塊。この子はいったい歩くことができるようになるのだろうか、目はどのぐらい見えるようになるのだろうか・・・そんな不安に押しつぶされそうな毎日です。
でも、ここで出会ったたくさんのお母さん、そして講師やボランティアで来てくださった方々との出会いが前へ前へと進ませてくれています。
「育児は育自」とよく言いますが、いろんなことを子供たちから教えてもらっているなぁと実感の毎日です。
書き出したら止まらない私・・・。コラムというには、毎回、長い文章になってしまい反省です。でも、私の育児はほんの一例。病院にはいろんな子供たちが入院しています。その数だけ、いろんな悩みや不安を抱えながらの育児をしている人がいることを知ってもらえたらと思うのです。
そして、もし周りにこんな悩みを持った人がいたら、そっと私たちみたいな仲間の存在を教えて欲しいなと思うのです。
こんな私たちの今後が気になる方は是非、ブログへ遊びにきてください。お待ちしています。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
(Nっ子クラブ カンガルーの親子 登山 万佐子)
投稿者 Kosodate : 17:25 | コメント (0)
下の子が産まれると、上の子の赤ちゃん返りに頭を悩ませるお母さんも多いと思います。我が家の小学1年生の長男はただ今、赤ちゃん返り真っ最中。妹2歳の誕生日目前になってのちょっと風変わりな赤ちゃん返り・・・。
普段は娘のことが話の中心になってしまうので、今回は長男のことを書いてみようと思います。
長男は、1歳から託児所に通っていました。企業内託児所なので親同士も仲が良く、まるでたくさんの兄弟の中で育ってきたような環境でした。そのおかげか、社交的で小さい子のお世話が大好きな男の子に育ちました。
ですから、私のお腹に赤ちゃんがやってきたときの喜びようはすごいものがありました。多分、その喜びは主人以上?!そして、お腹の赤ちゃんは「女の子!!」と当ててしまうほどでした。
ところが私が救急車で運ばれてしまったことが、あまりにも鮮烈な記憶として長男に刻み込まれてしまいました。今でも言います。「僕はあのときのこと忘れないよ」って。
出産翌日、前夜のショックよりも「ママと妹に会える!」と長男ははりきって病院にお見舞いに来てくれました。妹を抱っこできると思って・・・当然ですが、それは叶いません。その後、心待ちにしていた妹に会えないという事実をどう心の中で理解してよいのか・・・5歳のお兄ちゃんには辛かったと思います。そして、その悲しい思いをぐっと我慢しなければないけない毎日が始まったのです。
誕生から4ヶ月たった手術の日、ほんの一瞬でしたが「生」の妹に初めて会うことができました。看護師さんのご配慮で、手術室に向かう前にNICUに入る最後の扉ギリギリのところまで保育器を持ってきてくれたのです。お兄ちゃんの「あやちゃん、頑張れ〜!」の声に送られて手術室に向かった娘は、確かに長男の声のするほうに体を向けたのです。兄妹の絆って不思議です。
初めて見た妹は「ちっちゃかった・・・」そうです。ちょうど体重1000gを超えたばかりの妹です。その姿に妹のおかれている状況、大変さを実感として理解したようでした。
そして、その2ヵ月後晴れてNICUを退院。この日は特別に幼稚園をお休みし、みんなで病院にお迎えにいきました。念願の初抱っこです。長男の笑顔は最高に輝き、嬉しさととまどいで、小さな妹をしっかり抱っこしていました。
低出生体重児や病気・障害を持って産まれてきた子供たち。どうしても普通の赤ちゃん以上に気がかりなことばかりの育児です。母親も様々なことに過敏になってしまいがちです。
この子たちにとって、ちょっとした風邪でも命にも関わるほどの重大事です。当然、しばらくの間は幼稚園のお友達は出入り禁止。夏休みも外で思いっきり遊んであげることができませんでした。我慢、我慢、我慢・・・・。でも大好きな妹のためだからと一生懸命耐えてくれました。そんな夏休み、目の状態が悪化し緊急入院・手術。母子入院なので、夏休みの残り半分は妹とも私とも離れてしまわなければいけなくなってしまいました。長男のストレスは相当なものだったと思います。幼稚園の年長さんの時の出来事です。そして、無事に長女も1歳を向かえ、長男は1年生になりました。
学校の長期の休みでも、妹の療育にお休みはありません。週3日はリハビリ、週1日は視能訓練に通うのですが、それにも長男は保護者(?)として、しっかり同行し、リハビリのコツなんかもしっかり覚えて家で実践してくれるほどです。
そんなしっかり者と病院の先生方にも評判のお兄ちゃん・・・。でも、やっぱり心の中ではいろんな葛藤があるものです。
お友達の妹や弟がだんだんハイハイしたり、歩いたりするのを見るようになり、「なぜ、あやちゃんは歩かないの?ハイハイしないの?」と頻繁に聞くようになりました。
そして最後に、「僕、普通の赤ちゃんがよかった」と。
さすがにこの言葉はショックでした。
早く妹と手をつないでお花畑を歩きたい。これがお兄ちゃんの夢なのです。それが、いつになったら叶うのか・・・お友達はみんな、弟や妹と走り回っている。悔しくて悔しくて仕方がなかったのだと思います。
最近、お母さん仲間と話題になるのが、その子の病気や障害のことを兄弟たちにどう理解させていけばよいのかということ。じっと我慢をして子供らしさがなくなっていくのをどうしたらいいのかということ。障害を持つ弟の姉として、その経験を聞かれることもしばしばです。
さすがに私も、なぜ妹が1歳になってもまだ歩かないのか、その理由を小学1年生の息子には説明できませんでした。ただ、「ちょっと早くお腹から出て来たから、今度はゆっくり、のんびりしているのよ。」というのが精一杯でした。当然、納得するわけがありません。
何度もそんなことを繰り返していましたが、結局、産まれてすぐに脳出血をしたこと、そのことで頭からの命令を伝える神経が少しだけ壊れて手足に動けという命令がうまくいかないのだと説明をしました。だから今、リハビリに頑張っているのだということも付け加えて・・・。納得したようでした。子供だからとごまかした説明は通用しないということなのでしょうか。(これは、ある程度の年齢だからということがあると思います)
先にも書きましたが、私は長男をリハビリや病院、盲学校にも連れていきます。
リハビリについて来た初日、自分よりも少しだけ年上の重度心身障害のお兄さんの姿を目にすることがありました。ショックだったようで、しばらくの間、リハビリについていこうとはしませんでした。この春からは市内で行われる障害児者の会にも連れて行き、自閉症やダウン症、肢体不自由の子供たちの中に入れています。もちろん今は、その子たちの障害のことは理解していないと思います。でも、こうやって当たり前に一緒に過ごすことで自然に育まれてくるものがあるはずだと思っています。
そんなことの繰り返しで、いつしか妹の歩かないことを言わなくなりました。
来月2歳を迎える今、運動面での発達の遅れはあるにせよ体の状態はとても安定しています。そのことがお兄ちゃんにも分かるのでしょうね。お兄ちゃんの声に一番良く反応してよく笑うようにもなりました。そんな安心感からか、まるでこの2年間我慢していたものを返上するかのように赤ちゃん返りが始まったのです・・・。20キロを超えた巨大な赤ちゃんの誕生です。
赤ちゃん返りをしても妹にとっては、優しくて頼もしいお兄ちゃん。抱っこして絵本を読んであげたり、ミルクを飲ませたり、お世話もしっかり一人前です。2年前はこんな光景を想像することすらできませんでした。そんな何気ない一日、これがどんなに愛おしいことなのか。大変な思いをしてきたのは決して娘だけではなく、長男も同じように頑張ってきたんだなとつくづく思うのです。
(Nっ子クラブ カンガルーの親子 登山 万佐子)
投稿者 Kosodate : 13:20 | コメント (0)
みなさん、連休はどう過ごされていましたか?わたしは、大分にチャレンジ!おおいた大会に2泊3日の応援旅行に行ってきました。もちろん、娘も一緒です。少々、ハードな日程だったにもかかわらず、調子を崩すこともなく帰ってこれてホッとしているところです。
さて、今回は育児と仕事について書いてみたいと思います。初回に書いたように私はいわゆるワーキングマザーでした。勤めていたのは社内に託児所があるような会社で、しばしばその取り組みが新聞やテレビなどでも紹介されていました。
社内には、結婚=寿退社という風潮はなく、出産しても働き続けるママ仲間が数多くいました。私も長男を出産後、当たり前のように1年間の育児休暇を取得し、その後、職場復帰。時間短縮での勤務からスタートし、3歳になったころフルタイム勤務に戻しました。
ですから当然、長女の妊娠が分かったときも辞めるつもりはなく、同じように育児休暇を取り、時間短縮勤務をする予定でした。出産予定日は3月中旬、産休に入るのは1月末の予定。ところが、いきなりの産後休暇突入です。
出産翌日、主人が朝一番に職場に電話をしてくれたのですが、なかなか話しがかみ合わなかったそうです。無理もないですよね。前の日、全く普段通りに帰宅したので、まさかその夜に出産したなんて誰も信じてくれなかったようです。
やりかけの仕事は山ほどありました。現場はかなり大変だったと思いますが、上司、先輩、後輩、みんなに支えられました。残した仕事をどうにかしなければいけないという緊張感が長女出産のショックを和らげてくれていたのかもしれません。
さて、育児休暇後の職場復帰をどうするか。私の勤めていた会社の規定では満1歳(特例で1年半まで可能)を迎える月までが育児休暇期間です。しかし、私にはその自信はありませんでした。というのも、ある本を読んでいたからでした。それは娘と体重・在胎週数の近い22週5日520gで産まれた赤ちゃんのNICUでの毎日を綴ったもので、その赤ちゃんが退院したのは1歳の誕生日を過ぎてから・・・。長女の入院計画書には4〜6ヶ月の入院と書かれていましたが、私にとっての生の体験談・情報がこの赤ちゃんでしたので、きっと娘の入院も1年近くなるのだろうと心のどこかで思っていました。
ということは、NICU退院=育児休暇終了?!そんなのはとうてい無理です。せめて特例の1年半まで育児休暇を認めてもらえないかと会社に打診を始めました。
ところが、3月、長女の目(未熟児網膜症)の手術をきっかけに私は退職することを決めたのです。硝子体と水晶体の除去。コンタクトレンズを使用すること。視力がどれぐらい期待できるのか未知であること。もしかしたら手術をしても失明するかもしれないということ。そして、これから先に起こるであろう様々な困難を考えてみました。
そこで出した答えは、母として子供にとことん関わっていこうということ。職場は必ず代わりの人が出てくる、でも母親は誰にも変わることができない。それは娘のためだけではなく、長男にとっても取り返しのつかない事態を引き起こさないための選択でもありました。自分でも不思議なぐらいすっぱりと仕事を辞めてしまったのです。
ただひとつ付けくわえておきたいことは、もしもっと早い時期に同じような状況の人たちとの出会いがあったら、もう少し違った選択をしていたかもしれないということです。同じように早産をしても仕事に復帰した人もいるし、視覚障害があっても普通の学校(弱視学級)に通っているお子さんもいます。今になってそういうお母さんたちとたくさんであったのです。
だからといって、もちろん仕事を辞めたことを後悔はしていません。仕事をしていないからこそ、週3日のリハビリと週1回の視能訓練にと存分に時間をかけてあげることができるのですから。
そろそろ2歳を迎える今、家計のことを考えると仕事を始めたいというのが本音ですが、やっぱりまだ働きに出ることは考えられそうにありません。訓練・療育がまだまだ必要なこと、それに伴う時間的な制約、保育園の受け入れ先など壁があるのが現実です。
この仕事復帰に関する問題は、お子さんが病気や障害を持っている多くのお母さんと近頃よく話題になることです。ある意味、少数派の私たち、的確な情報や場がもっと早くあるといいなと思うのです。
仕事を辞めた今、ひとつ気がついたことがあるのです。結局、人生、もともとやりたかったところに戻ってきたのかな・・・と。
高校時代、本当は養護学校(現在の特別支援学校)の教師になりたいと考えていました。実は私の弟には知的障害があります。小さい頃から弟を通じていろいろな障害のあるお友達やその家族を見てきました。大学もそのための学部を受験していたのですが、心の中にはずっと迷いがありました。本当に自分に務まるのかと・・・。結局、その夢を自分でつぶしてしまいました。
今、娘のことがあってはじめて子供の障害や病気のことで悩んでいる人たちに寄り添うことができるのでは思えるのです。同じ思いをしている一人の母親として・・・。
今の私だからできること、娘を産んで感じたこと、乗り越えてきたこと、子供に教えられたこと・・・それを伝えていくことが、もしかしたらこれからの私のライフワークになるのではないかという予感があるのです。
人生って不思議です。一見、不幸な出来事が起こったと思えるようなことも、気がつくととても大きな意味があるということ。きっとその出来事の意味に気がつくか、気がつかないかだけないだろうなって。
確かに、娘の出産でそれまでの私の人生は大きく変わりました。でも、もしかしたら本当に進むべき方向へ向かうためのものだったのかもしれません。
とはいえ家計はやっぱり火の車・・・。できれば在宅で収入をなんて考えている今日この頃です。誰か良い方法知りませんかって、求人情報をここで求めちゃったりして・・・。育児と仕事、とりわけ、療育・介護と仕事・・・。是非、みなさんの経験もお聞きしてみたいなと思います。来週は兄弟について書いてみたいと思います。
(Nっ子クラブ カンガルーの親子 登山 万佐子)
投稿者 Kosodate : 18:30 | コメント (0)
長女のような赤ちゃんのことを以前は未熟児と言っていましたが、現在は低出生体重児と呼びます。特に1500g未満を極低出生体重児、1000g未満を超低出生体重児といいます。
世の中の出生率は低下していますが、逆に低出生体重児は増えていっているのが現実です。それは、医学の進歩、そして不妊治療の発達などがあるといわれています。晩婚や女性の社会進出など、そして、それに伴う高齢出産の増加でリスクの高い妊婦さんが増えてきているのも事実でしょう。かくいう私もその一人に入ります。
低出生体重児といえば、その体重の小ささばかりが注目されがちですが、未熟児で産まれた赤ちゃんにとっての予後はその体重だけではなく、在胎週数、つまり妊娠何週までお腹の中にいたのかということがとても重要になってきます。
早くこの世に出てくるということは、人としての器官、機能がまだまだ完成されていないまま世の中に出てくるということなのです。
長女は23週1日、452gでこの世に誕生しました。
実は、10数年前までは、この妊娠23週までなら人工中絶が可能とされていました。つまり、つい一昔前までは、人としてこの世で存在するチャンスを与えられなかったのです。仮に早産で母体から出てしまっても蘇生をしてもらえることがほとんどなかったと聞いています。
現在、医学がいくら発達したとはいえ、やはり母体の外で生きるにはあまりにも早すぎます。この週数、体重で産まれた赤ちゃんの生存率は約50%だとか・・・。専門書によると「生物学的、医学的観点からみても生育限界は400〜500g、22〜23週」(『改定3版 超低出生体重児 新しい管理指針』メジカルビュー社)と書かれています。つまり、長女はギリギリの生存条件で誕生したということが言えるのです。脳や神経、その他の様々な器官が発達していくのはこれからだというときです。生まれたばかりの長女の上下のまぶたは筋があるだけで、まだくっついた状態でした。
それでも長女は、「生きて」私のお腹から出てきたのです。仮死状態での誕生にも関わらず、手術に立ち会っていた助産師さんは「生命力のある子」だと感じたと後で話してくださいました。瀕死の状態であったであろうはずなのにそんな風に感じさせたなんて・・・。
もしかしたら、救急車の中で不思議と不安を感じなかったのは、この子の強い「生きる」という意志を感じていたのかもしれません。
産後の私はというと血圧の異常な上昇と通常の半分以下という貧血状態。それでも、出産翌日には面会に行きました。母親の意地でしょうか。
そこで見た初めての我が子。人工呼吸器、いくつもの点滴、全身に張り巡らされたモニターのコード。なんとも痛ましい姿でした。頭はまだ大きく、体は黒く、手足はか細く、新生児とはほど遠く、胎児そのものの姿でした。無事に産まれてくれた現実を確認できた安堵感と同時に、この小さな小さな命はこの先どうなるのだろうか、本当に生きていくことができるのだろうかという不安が襲ってきました。
私が退院したのは年賀状印刷の締切り間近という時で、長女の名前をどう入れようか、ものすごい葛藤が私の中にありました。もしかしたら、この子の命は年を越すことができないかもしれない・・・と。でも主人が一言「大丈夫。僕たちの子供だ」。その言葉に救われ気持ちが軽くなり、子供の生命力を信じることを忘れそうになった自分が恥ずかしくなりました。
そうは言っても、次から次へと襲う試練の数々・・。後で「教科書通りだった」と先生がおっしゃったほど、早産児、未熟児がNICU(新生児特定集中治療室)で経験する病気は見事に経験しました。
特に、生後3日目の夜の脳と肺からの出血は生死をさまよう大きな試練でした。私も主人もNICUに呼び出されました。保育器は血だらけ、主治医が手動の小さなポンプで必死に蘇生をしてくださっていました。体についた血も、数日間はわずかの振動も影響するからと拭いてもらえない日々が続きました。
そんな薄氷の上にいるような日々、私は、学生時代に何かで読んだ事を思い出していました。
それは、約60兆個あるといわれている人の細胞は数年かけて全て入れ替わるということ。新陳代謝の活発な赤ちゃんならもっと早いはずだと勝手に決め、娘の体を手のひらですっぽりと覆いながら、細胞のひとつひとつに健康な細胞に生まれ変わるんだよと祈りを込めて語りかけていました。まさに親にしかできない「手当て」です。
また、がん患者などが、生きがいを見出し、生命力を沸き立たせ、余命を伸ばしたとか、治癒させたとかいう話をよく聞いていました。ポジティブな発想が、免疫機能を高めるというのです。それならば、赤ちゃんの生命力を湧き立たせるのは母親。その母親が弱気でいてはいけない。母として子どもを信じました。絶対に大丈夫と信じていました。
この世で生きていくにはあまりにも過酷すぎるその小さな体に秘める生命力、自然治癒力の可能性は無限でした。その小さな体は、しっかりと「生きる」方向を向いていたのです。
この危機を乗り越えたことで、主治医からは「かなりたくましい子」とのお墨付きをもらったほどでした。
二つ目の大きな試練は、未熟児網膜症でした。発症してもレーザー治療を数回すれば症状が治まる子が多いそうですが、長女の場合は4回の治療でも治まらず、最終的には早期硝子体手術を両眼とも受けることになりました。やっと1000gになったばかりの体に全身麻酔での手術です。
実は、この手術は大人の硝子体手術と違って水晶体も摘出しなければならないというものです。なんの問題のない、しかも物を見る上で重要な機能を持つ水晶体を除去することへの抵抗、手術してもしなくても失明するかもしれないという恐怖との戦いでした。こんなに目が見えなくなることが怖いものだとは知りませんでした。手術前、辛くて泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、そしてふっと気持ちが軽くなったのです。見えないということが怖いのではない、心の自由がなくなることが怖いんだ。何があってものびのびと明るく、自由にどこにでも行ける子に育てていこう、と。
現在、正確な視力はまだ測定できませんが、なんとか光を失わずにはすんでいます。そして、視力を育てるための視能訓練に通っています。
長女はちょうど半年間、NICUで過ごし退院しました。NICUでの日々の出来事は私のブログ(リンク先→http://n-kan-oyako.cocolog-nifty.com/blog/)に書き記しているので、気になる方は是非、そちらのほうを読んでみてください。
早く小さく産まれてきた赤ちゃんは、入院中、みんないろいろな病気と闘っています。中には200g台まで落ちた体重で開腹手術をするお子さんもいました。心臓、脳の手術をするお子さんもいます。もちろん、NICUには、早産児・未熟児だけではなく、先天的ないろいろな病気や障害を持って産まれてきたお子さんもたくさんいます。残念ながら、おうちに帰ることなく亡くなってしまうお子さんもいます。
でも、みんな、子供たちは何かを伝えるため、何かの使命があってお母さんのお腹の中で命が誕生し、産まれてきたのです。
無意味な命なんてひとつもないのです。
私は、長女がこのような誕生をしたことで、今まで知らなかった世界をたくさん見ることができました。頑張っているたくさんの子供たちとその家族に出会いました。たくさんの人とのつながりを持つことができました。その出会いのひとつひとつが私の大きな財産となっています。
「使命」は命を使うと書きます。まさに命がけで誕生した長女は、どんな使命を持って産まれてきたのでしょう。これから彼女はどんな人生を歩んでいくのでしょう。
その答え探しは、始まったばかりなのです・・・。
(Nっ子クラブ カンガルーの親子 登山 万佐子)
投稿者 Kosodate : 17:07 | コメント (4)
10月のコラムを担当することになった登山です。よろしくお願いします。
ただ今、専業主婦2年生。そして、「Nっ子クラブ カンガルーの親子」代表というのが今の私の肩書きです。「Nっ子クラブ カンガルーの親子」とは、小さく産まれた赤ちゃんのための親子の会のこと。この会については、また後日ということにして・・・。
我が家は、同じ年の主人と小学1年生の長男、そして来月11月で2歳になる長女の4人家族です。
実は、娘が生まれるまでは、バリバリ(?)のワーキングマザーだった私。ですから、長女が誕生したら長男の時と同じように1年間の育児休暇を取り、そのあとは時間短縮勤務でしばらくのんびり働こうなんて考えていました。ところが、ところが・・・・人生って予測もつかないことが、ある日突然、起こるものなのです。
それは2006年11月15日のこと。その日も普段どおり仕事を終え、夜7時過ぎ長男と自宅に戻りました。午後8時過ぎ、「ママ〜」とトイレから呼ぶ長男の声に立ち上がった瞬間、「パーン」。まるで水風船が割れたような音がしたのです。一面、血の海。あいにく主人はまだ帰ってきていません。電話をかけても出ず、かかりつけの産婦人科に連絡すると「出血なら入院の可能性も。準備してきて」と言われました。そう言われても入院の準備なんてできるような状況ではありません。とにかく身ひとつで行くことに。主人もやっと飛んで帰ってきて、親子三人自家用車でかかりつけの産婦人科に向かいました。気丈に「ママ、僕の肩につかまって歩いて」と言っていた長男も、私が病院に着くなり車椅子に乗せられると、その瞬間、ただ事ではないと感じたのか、ものすごい勢いで泣き出したのです。その声を今でもはっきり覚えています。
診察台でいつものようにお腹のエコーをとった医師の顔色が一瞬にして変わりました。いつも聞こえるはずの心音が聞こえないことは私にも分かりました。
医師は説明よりも先に、救急車の手配と九大への受け入れ要請を看護師に指示しているのです。そして「とにかく覚悟をしておいてください」のひとことを残し、診察室の外へ出て行ってしまいました。廊下で泣きじゃくる長男と一緒にいる主人に説明をしているようでした。私に分かることは異常事態だということ。ほどなく救急車のサイレンの音が聞こえ、私は九大に転送されました。主人と長男は後ろから自家用車で追いかけてくることになりました。
意識ははっきりしていたものの、こういう時はみなさんも目をつぶっているものなのでしょうか。揺れる救急車の中で、私はずっと目をつぶり、手はお腹を抱えるようにしていました。そのせいか、後でカルテを見ると、症状の欄に「腹痛激痛」というようなことが書かれていました。でも実際には、私は痛みを感じていなかったのですが・・・。
九大の医師も診察のあと「とにかく危険です。すぐに出します」と帝王切開の準備が始まりました。主人はまだ病院に到着していません。通常、手術前に行われる説明、承諾書のサインをもらう時間もないという先生方の緊張感はものすごいものがありました。そして、また「覚悟だけはしておいてください」と。ここでも私には一体何が起きているのかわかりませんでした。私は点滴をされ、術衣に着替えさせられ・・・されるがまま。そして全身麻酔のマスクを口に当てられ「息を吸って〜」・・・。
おぼろげながら意識が戻ったのは、いったい何時頃だったのでしょうか。ベッドの傍らで、主人の「女の子だよ」という声を聞いたような気もします。でも、それが本当の声だったのか、夢だったのかはっきりしないまま、また意識が遠のいていったのです。
私の知らない長女の誕生の瞬間。それは・・・
2006年11月15日午後10時51分誕生。
在胎週数23週1日(妊娠6ヶ月) 出生時体重 452g 身長26.8cm
超早産児、超低出生体重児、アプガースコア1/3 新生児仮死
予定日は翌年の3月中旬でした。想像することすらなかった早産。予定日より4ヶ月近く早く、主人の手のひらにのるほどの小さな小さな赤ちゃんが生まれてきてしまったのです。
原因は常位胎盤早期剥離。私の場合、胎盤が4割近く剥がれていたそうです。
自宅での出血から約3時間での誕生。
もし主人がすぐに帰ってきてくれなかったら。もしすぐに大学病院に受け入れてもらえなかったら。もしも、もしも・・・。何かひとつでもタイミングがずれていたら、きっと長女はこの世に誕生することはなかったでしょう。それどころか、私自身も命を落としていたのかもしれないのです。
2006年11月15日は、思い描いていたこれからの人生を大きく変えた一日となり、これからの人生にとても大きな意味を持つ一日になったのです。
(Nっ子クラブ カンガルーの親子 登山 万佐子)