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長女は3歳頃吃音だった。今思えば私の怒りすぎが原因だったと思う。友達に相談すると「たぶん頭のいい子だから、考えていることと話す言葉が追いつかないだけだよ。」っていってくれた。それだけで、自分の不安は解消された。自分が怒りすぎているのではと自分を責めているときはつらかったけど、考え方と視点を変えるだけでずいぶんと楽になることを学んだ。もし、それが本当に怒りすぎが原因だったにせよ自分自身が悪いんだと思い続けていると、子育てもつらくなるけど、ちょっと考え方を変えるとゆとりができる。
それから、しばらくして長女の吃音は直った。
次女は言葉がなかなか出なかった。周りのおばちゃんたちにも「この子はなかなかしゃべらんね。でも、こういう子が話し出すともういいよってぐらいしゃべりだすよ。」といわれていた。先輩のお母さん方のいうことは本当だった。次女はおしゃべり好きな子に育った。でも、この子はなかなか新しい環境になじめないという性格を持っている。幼稚園に上がって1ヶ月間、泣き通し。朝、主人に送ってもらうが、車から降りようとしない。「幼稚園には行きたくない」と泣き叫ぶ。長女と同じ幼稚園へ通わせて、知っている先生ばかりだし、知っているお友達ばかりなのに、、、。幼稚園から登園拒否かと心配した。毎日私にお手紙をくれた。。
「おかあさんへ ○○○ちゃんはおかあさんがらいすき(だいすき)です。ようちえんにいしよ(いっしょ)にいきたいです。」と、覚えたてのひらがなで毎日書いていた。これを読んでは私が泣いた(今でもまぶたが熱くなる)。私の職場と幼稚園が真逆の方向にあったので、送迎が難しかった。あまりに毎日書いてくるので、一時間だけ年休とって送った。そして、迎えにも行った。
次女はその日から泣かなくなった。彼女にとってそれだけでよかったらしい。周りの子どもたちが母親に送ってきてもらっているのに、自分だけ父親というのが納得いかなかったようだ。今では皆勤賞の年長さんです。
三女は、言葉が豊富だ。「たぶんね。」「たとえばね、、、」「しかたないじゃん。」とか大人顔負けの言葉が飛び出す。もうすぐ4歳の年少さんだが、言葉の魔術師だ。
私が真剣に怒っているのに
「○○○ちゃんはお母さんが大好きなのに、何でそんなに怒るの?」
こんな言葉を言われると、その先怒れなくなるのよねえ。
この三姉妹の笑顔に支えられながら、毎日楽しい日々を送らせてもらっています。
つたないコラムですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
(親バカんなの母)
投稿者 Kosodate : 09:40 | コメント (2)
今から初めてお産を経験する方の参考になるかどうかわかりませんが、私の3人分の出産エピソードを聞いてください。
まず、長女。初産というのは私自身不安がいっぱいだった。予定日は建国記念日。予定通り行けば祝日だから主人もお休みだし、他の日に休みを取らなくていいなと思ってた。
しかし、お産というのは大人の都合でうまくはいかない。子供が生まれてきたら、外食もままならないだろうと予想できたので・・・予定日一週間前の土曜日、外食に出かけた。検診も終わっていたので、体重を気にすることなくおなかいっぱい食べた。
そして、帰宅。おなかが痛い。(食事中の方はごめんなさい)下痢の前のような痛み。トイレに駆け込んで力を入れるがなかなか出ない。途中痛みが和らいだときにお風呂に入った。また、痛む。今考えれば陣痛だったとわかるが、そのときばかりは下痢だと思ってた。主人にトイレの扉をたたかれながら、「陣痛じゃないの?」といわれるが、「ううん(首を横に振って)、食べ過ぎておなか壊しただけ。うんちが出たら治る痛みやけん。」と言い張った。なにを我慢していたのかわからないが、これぐらいの痛みで病院に行ったら笑われるんじゃないかと思ってた。つまり、どれぐらいの痛みが陣痛なのかわからなかった。
結局、主人から病院に行ってくれと懇願された。病院についてもすぐにトイレに駆け込んだ。なかなか出てこない私の様子を心配した医師が「とにかく出てきてください。内診しますので」といわれて、診てもらった。「子宮口が1cm開いてますね。とにかく今晩は入院して様子を見てください。」といわれた。で、主人が家に帰ろうとした瞬間、バア〜ン!おなかの風船が割れた。破水。そしたら、あれよあれよとお産が始まり、日付が変わって無事出産。トータル4時間ぐらいの痛みで喜びの対面を果たした。
助産師さんのお話によると、初産としては早いほうですねといわれた。
しかし、二人目はまだ早かった。予定日と実の妹の誕生日がとても近かった。だから、「おばちゃんのお誕生日7月29日に生まれてきてください。」と、おなかの赤ちゃんに祈り続けていた。そしたら、前日の28日夕方におしるしがあり、29日に日付が変わってすぐに「ポコッ」という音がおなかの中からした。すぐに病院に駆け込んだ。病院の階段が上れないほど、いきみたい状態だった。窓口で「母子手帳は?」と聞かれて、返事ができないほどのいたみと落ち着きのなさだった。その様子を主人は「トイレを我慢している女の人が横に立ってた。」と表現して、笑い話のネタに使っている。おしりを押さえられながら、分娩台にもあがれず、出産。まさしく安産。「ポコッ」という音からわずか45分の出産だった。そして、念願通りのおばちゃんと同じ誕生日。
このように前の2回の出産が早かったので、3人目のカルテに赤丸印つき。病院側がみんなで注意を払ってくれていた。その日は上二人を連れて39週目の検診の土曜日。内診をした医師は「もう5cm開いてるよ。入院の準備してきた?」「え〜」ってな感じで迎えたお産。仕事中の主人に急いで入院セットを取りに行ってもらって、病院に到着するのを待って無事出産。3人目はみんなに囲まれてゆっくりと生まれてきた。
3人とも安産だったのは、たぶん出産前のフットワークの軽さが功を奏したんだと思う。
第4回は「子どもの言葉」について語ります。
(親バカんなの母)
投稿者 Kosodate : 10:33 | コメント (0)
前回の続きを書き続けると暗くなるばかり、、、
今回は「たまにはいいこともあったのだ」について語ります。
長女8ヶ月の時、町の広報誌から子育てグループの見だしを見つけた。子供が生まれてもこの町に友達がいない私には、外に出ることも億劫だった。でも、このグループのことが気になって初めてわが子を連れて定例会に参加した。その日は「おもちゃの選び方」についてだった。木のおもちゃの大切さやおもちゃの与え方、積み木の意味などのとてもためになる講話を聞いた。その会を運営しているママの中に私に話しかけてくれるMさんがいた。いろいろ話しを聞いていると、同居しながら、嫁姑の問題も抱えていることなどがわかった。そして、私も、同居していることを伝えると「とられるやろ?」といわれた。その一言が私の心のダーツの真ん中にピターッときた感じだった。それから、ぽろぽろと涙が落ちてきて、はじめてあったMさんの前で泣き出してしまった。Mさんにも同じ経験があり、私の気持ちに共感してくれた。その場ではあまり詳しいことまで話せずに終わったので、Mさんは心配して連絡先を教えてくれた。それから、子育てグループに入会していろいろな友達ができた。同居の悩みを抱えるママは私の周りたくさんいることがわかると、安心した。私の場合は子育ての悩みより同居の悩みの方が大きかった。同居がうまくいっている人や核家族の方々にこの手の話をしてもわかってはもらえない。でも、同じ悩みを持つもの同士が集まって愚痴を言い合うだけで、それなりにストレスを発散するいい場となった。
私の子育てグループとのかかわりは、この長女の時から足かけ8年になる。その間、二人目を出産し、育休が終わるころまた、三人目を妊娠。私は育休3年とれることを利用して、5年間とり続けた。その前の長女の育休明けからわずか半年後のことなので、7年ほど育休をとっていた計算になる(昨年春に仕事復帰)。3年育休をとる人も珍しい時期に私は積極的に活用させていただき、我が子との時間を有効に使わせてもらった。この5年間の間に乳幼児を中心とした子育てグループを友人と共同で立ち上げ、行政からの援助を受けながらいろいろな活動やイベントを繰り広げた。その間、3姉妹を一人はおんぶ、一人はだっこ、一人は手を引き、北は小倉から南は大野城まで走り回り、いろいろな講演会に参加し、子育てグループと一緒に親子共々楽しんだ。
この育休中にいろいろな人と巡り会うことができ、自分自身の人間の器としての小ささを目の当たりにした。そして、何より三人目を産んだころから、義母とのもめ事も少なくなり、表面上ではうまくいっている雰囲気を漂わせていた。
同居ノイローゼも育児ノイローゼも友人ができたこと、横とのつながりが増えたこと、外に頻繁に出るようになって解消されたと言っても過言ではない。
しかも、その人たちとのつながりは仕事復帰後もおつきあいが続いており、その当時を振り返る仲間ができたことがうれしい。子どもがいてくれたおかげでできた人とのつながりだが、今では一人の友人としてつきあってもらっていることが私にとって大切な財産になっている。
第3回目は「私の出産って?」について語ります。
(親バカんなの母)
投稿者 Kosodate : 10:42 | コメント (2)
8月のコラム担当野島さん、お疲れ様でした。とってもおもしろかったです。自分自身と照らし合わせてみて、まったく違う生活スタイルのあなたに興味がわいちゃいました。今月は3姉妹の母:親バカんなの母の担当です。
このコラムを楽しみに読んでいただいている読者のみなさん、ほんとに申し訳ありません。私は幼いころから作文が苦手で、もう時効だろうと思いますので白状しますが、小学校4年生の時に書いた読書感想文「伝記:野口英世」を3年間使い回し(担任が異なっていたため、こういうことができた)した人間です。それぐらい文章を書くことが苦痛で、表現力が乏しくつたない文章しか書けません。そんな私がコラムを引き受けるということはかなりの挑戦です。言葉が足らず、行間にいろいろな思いが詰まってるコラムですが、全4回おつきあいくださいませ。
一つ下の夫と職場結婚し、結婚と同時にバブル期に夫と義父が建てた大きな家に何の疑問を感じることなく夫の家族との同居生活が始まった。土建業を営む夫の両親、夫の祖父母(義母方)、義母の弟(未婚)、義妹。二人ですごす甘い新婚生活を経験することもなく、いきなり大家族の一員となった。対して私の実家はというと父、母、妹、の典型的なサラリーマンの核家族。住まいは、都会とまではいわないが、市内、空港、JRの駅にほど近く、便利なところにあった。そこから四方山で囲まれ、田んぼや畑が散在し、緑豊かで自然に恵まれ、四季を五感で感じられる町に移り住んだ。車がないと移動も厳しく、町に1つしかないスーパーまでも車で10分。また、回覧板を回そうにも隣の家まで歩いて10分はかかる家。さあ、どんな同居生活が始まったのかな?
・結婚式翌日の朝。同居生活初日なだけに私にはかなりの衝撃的な事件だった!
義母に「ミニクロワッサンをトースターで焼いて食べなさい。」といわれるままに焼いてみた。一人暮らしの経験もあるのでトースターぐらいは使ったことがあったので、自分で焼いてみた。意外にも火力が強かったのか、時間が長すぎたのか、表面の砂糖のせいなのか、パンの表面が少々焦げついた。
私は、食べられないことはないと食卓に運んだ。
すると、義母がつかつかとよってきてクロワッサンをみるやいなや 「こんな焦げたパンたべなさんな。貧乏くさい。」といって、私の「食べられますから」ということばは完全に無視され、ゴミ箱に捨てられてしまった???
はじめ私は大事な、大事な、旦那様を産んで育ててくれた方々だから、うまくやっていけると思ってた。そんな考えは甘かったあ。涙あり、笑いなしの同居ノイローゼ。その中から今回、いまだに私の心の中で消化仕切れていない事件を、ミニクロ事件以外でいくつかを紹介したい。
・義母の運転で買い物に出かけた日のこと。買い物先で買ったバナナを車中で食べ始められた。食べた後の皮は、当然持ち帰るのであろうと思いきや、義母は当然のようにパワーウインドーを下げ、皮を車外へポイ。私はたまらず「あっ、持って帰ってください。」「こんなゴミはなんでも自然に返さないかん。」その後もガムやお菓子のゴミもポイ、ポイ、ポイ。信じられない?????
・食事のスタイルは地方によってそれぞれ異なる。しかし、箸をたてに置く習慣は日本全国見回ってみてもまれだろう。我が家の箸は、右側にたてに置いてあった。私にはなじみがなく、自分自身受け入 れることができず、何度も横に置き直してみた。しかし、業に入れば業に従えとでもいいたいのか、向きはたてに置き変えられた?????。
・我が家には台所に立てる人間が、義母、義妹、義祖母、と私。これだけいれば、私の出る幕はない。私も仕事を持っているので3人に任せて安心だと勘違いしていた。同居し始めて1ヶ月で気づいた。毎日肉料理の日々だった。唐揚げ、焼き肉、トンカツ、カレー、ハンバーグ、すきやき、もつ鍋、豚足、たまに刺身。そのメニューが順番に巡ってくる。肉がなかなかのどを通らない私は、仕事帰りにコンビニでサラダを食べる日々となる?????
生活スタイルも経済観念もまったく違うところに長男の嫁として嫁いだ私は、まさしく異国に嫁いだ嫁だった(方言も難しかった)。同居生活で見せられる不可解?不愉快?な出来事にだんだんついて行けなくなったことは容易に想像がつくことでしょう。のどの奥に大きな石を抱えているような状態で、のどの奥がとっても重たかった。自分の思いをいえず、笑顔が消えていく自分。
あげればきりがないほど、いろいろなエピソードが繰り広げられた。こんなこと箇条書きにしても嫌な思いは増すばかりとは思うけど、、、今回のコラム書きを最後に封印します。
次回もまだまだあります。
(親バカんなの母)