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家族で長崎くんちを見物に行った時、車に忘れ物をしたので、会場から駐車場まで取りに戻ることにした。開演まで間がある。長男を連れて行くことにした。会場の公会堂前から駐車場がある賑橋まで路面電車で一駅だ。抱っこして歩くよりも電車に乗ったが楽だ。
長男を抱っこして電車に乗った。
「ぶー」
座席は満員だったので、長男を抱いたまま、車内のつり革につかまって立つ。長男は上に並ぶ、つり革が揺れるのが楽しいのか、指差して何度も「ぶー」と声を出している。
発車してまもなく、目の前の中年男性が席を詰めて隙間を作った。
「(お子さんを)座らせんね」
隣の年配の女性と、そのまた隣の、中学生くらいの彼女が、できた隙間に長男を座らせようと、笑顔で手招きする。未知の人々に歓迎されて、少しとまどう長男。
僕が隙間に座らせると、指をくわえて、ちょこりんと座ったまま、右手は僕の手を握って離さない。
隣から笑いかける年配の女性に、どう間合いをとっていいのか、困惑しているようだった。
すると、今後は、一つ隣の席にいた推定年齢70歳を越えている男性が、「いっしょに座らんね。詰めたら並んで座れる」と、声をかけて席を立つ。
「すぐ降りますから。いいですよ」
「よかけん。いっしょに座らんね」
70歳(推定)の高齢者に席を譲られたのは人生で初めてだ。長男の隣に一人分が座れる空間が座席にできた。中年の女性は、長男に笑顔で「よかったね。お父さんと並んで座って、よかったね。ぼく」と語りかけている。オトウサン。それは僕のことか。僕はオトウサンなのだ。
電車は、賑橋に到着した。しかし、せっかく譲ってもらったばかりなのに、いきなり席を立つわけにもゆかない気がして、そのまま西浜の町まで、一駅を乗り越すことにした。
一駅乗り越して、席を立つ。好意に満ちた長崎の人たちに、お礼を言わなくては。
長男に「バイバーィは?」と声をかけると、期待にこたえ、とても甲高い声で、「バイバーィ」と発声して手を振った。
長男の「バイ、バーィ!」の声に、電車のお見合い座席の両側に座った人々が、みんな微笑んでいる。人々の笑顔の中を、長男を抱っこして歩く僕の心境は、花道を行く役者のような幸福感だった。
(おっとん16)
投稿者 Kosodate : 12:34 | コメント (5)
昨年暮、子連れで九州国立博物館にでかけた。竣工まもない博物館を見ようと、博物館に向かう大宰府の道は、大変な人出である。途中で昼食どきになったので、席が空いている店を探して、一軒の茶店にはいった。ベビーカーと荷物を手にして、むずかる子供は嫁さんが抱っこして、子供がいなかった時代に比べると移動力は十分の一程度にまで低下している。
やれやれ、やっと座れた。博物館も大変な混雑のようだし、乳児を連れてこんな混雑の中、やってきたこと自体が、大変だったのだ。
注文して、昼食を待っている間、当時一歳の長男は、食卓のお盆に積み上げられていた湯のみ茶碗をみて、大はしゃぎしながら、手にして遊んでいた。われわれ夫婦は、消極的に注意するものの、基本的に微笑みながら眺めていた。
そのときである。隣に座っていた2人組の女性の一人から、きっぱりと注意されたのである。
「あなたの、子どもが、湯飲みで、遊んでいるのを、やめさせて、ください」
僕は彼女のほうに顔を向けた。20代前半の大学生のようでもある。
「さっきから見ていましたが、大勢のお客さんが使うかもしれない湯飲みを、お子さんが遊び道具にしているのに、とめようともしていませんでした」
畳敷きの店内に、お客さんがぎっしり。長い順番待ちのすえにやっとありついた食卓の前で、推定20歳以上年下の彼女から、説教されてしまうなんて、なんて運命なんだろう。とほほほほほ。そのとうりなので、反論もできない。とっても恥ずかしい。
「私が、もし、その湯飲みを使うことになったとしたら、私はイヤです」
「す、すみません。申し訳ないです」
とほほほ。50歳にして、世が世ならば、娘だったかもしれない20代の彼女から、注意を受けてしまうなんて、なんという不明。
親ばかが過ぎて、そんなことも分からなくなっていたのであろうか。自宅では、わが子の手が、汚れていようがいまいが、その手で食器を触っても、問題にはならない。しかし、ここは自宅ではない。社会生活の中だったのだ。
自宅で許される甘やかし行為は、「社会」の枠組みでは、許されないことだったのだ。無念なり。子どもさえ連れていれば、すべては免罪と思い込んでいたのではないのか。我が意識があまりにも情けない。無念なり。
そういう動揺を見透かすように、女子大生は言葉を続けた。
「私は、あなたの、お子さんの手が、汚いと、言っているわけでは、ないのです。とにかく、やめさせてください。私は不愉快です」
「はあ。申し訳ありません」
ひたすら頭を下げた。子どもの行為についての責任を、親が負うという現実をつきつけられたのだ。
頭を下げている時間が、とてつもなく長く感じられ、その後に、食卓に出てきた昼食を、夫婦そろって、いたたまれない気持ちで、無言で食べた。はしゃぐ長男を挟んで、注意されたわれわれは、がっくりと盛り下がってしまった。
帰宅してから母親に、顛末を話し「あーぁ。20歳以上年下の人から、注意されてしまった」と報告すると「ばかやねえ」と言われ、職場で上司にも話すと「恥ずかしいやろうが、あんたが悪い」と断言された。
それにしても、きっぱりした説教だったなあ。完膚なきまでに打倒されてしまった。年少の割りに天晴れではないか。まてよ、あの言葉。どこかで聞いた記憶がある。そうだ。10年前、福岡市で開かれた九州交響楽団による伊福部明氏が作曲した映画音楽を楽しむ「ゴジラコンサート」でのことだ。説教されたことで、10年前のほとんど忘れていた記憶を思い出した。
演奏が始まり数曲が過ぎたとき、私は、前列の親子連れに、説教したんだった。音楽が始まると、父親に連れられていた2人の子どものうち一人が、大騒ぎして大声を出すは、大笑いするわで、音楽を楽しむ気持ちが破砕された。
周囲の聴衆も、不快に思っているが、誰も注意しない。子供は無料入場だ。有料の入場券で来ている客の代表として、ここは私が言わねば!でも、「他のミナサンが不快におもっているでしょう」という注意の仕方は卑劣なので、父親に私は、このように伝えた。
「あなたのお子さんは、音楽を楽しむには、まだ難しい年齢と思います。笑うような場面でないのに大声で笑われたり、大騒ぎされるので、私は音楽を楽しむことができません」
父親は、私に頭を下げて、子どもを連れて退席していった。
そうだ。そんなことがあった。ゴジラコンサートで発言した、おのれ自身が父親に対して為した説教。「私は不愉快です」その決然とした意思表明こそ、当時の自分自身が心がけていた態度だったのだ。
それから10年、あのときの父親と同じように、身に説教を受ける立場になっていようとは。すっかり忘れていた記憶を、思い出し、あのときの父親の表情がどうだったかを、一生懸命思い出そうとしていた。思い出してどうなるわけでもないだろうに。
(おっとん16)
投稿者 Kosodate : 10:09 | コメント (4)
「よかねえ。イチバンよかころやね」
1歳11ヶ月になった長男と手をつないで散歩をしていると、自転車で近所のマンションにチラシ配っていたオジサン(推定年齢60歳越え)と3度もすれ違った。
最初は軽く会釈しただけだった。2度目は、こんにちは!と声をかけた。そして3度目は、むこうから声をかけてきた。
「そのころが一番よかもんねー。俺も3人、子どもを育てたばってん、思い出すのはそのくらいのときばっかりたい」
「今は何歳になったんですか」
「もう、みんな大人になってしもうた」
「そうですか」
長男が、おじさんの自転車をさわる。
「そうたい。よかねえ。子どもを育てていったら、いろいろあるけん。今も、子どもがたまに家に帰ってきても、おっさんになった目の前の、本人ではのうて、子どもが、そのくらいのときのことしか思い出さんとよ。イチバンよかときたい」
おじさんは、心底なつかしそうに断言した。イチバンよかときなんだ。俺は、その時に一緒に散歩してるんだ。
まだ数少ない単語でしか、言葉が話せず、一心に手をつないでいる子どもと歩くと、確かに「この瞬間は、自分だけが必要とされているんだ」という、ヂン!とくる充実感で満たされる。
あーッ!!と指をさした空をみると、鳥が横切っていたり、蝙蝠(こうもり)が飛んでいたりする。
アッパッパー!と指差した方角をみると、アンパンマンの絵を描いた幼稚園バスが停まっていたりする。
ブー!と指差した下を見ると、鉄柵の向こうに川の水が流れている。
ミー!と指差した川の中を見ると、どうしたわけか、蜜柑(みかん)が流れている。
1歳児といっしょに散歩していなければ、きっと目にしなかったはずのありふれた光景が、輝くような新発見のように次々に広がってゆく不思議さはどうだろう。
少し遠出をして、1時間にもわたる散歩を終えようと、最後の道を曲がったとき、あーッ!!と叫んだ長男が、僕の手を引いて、小走りに走り出した。
進路の先を見ると、そこには、休日には必ずお参りをしている近くの寺の本堂が見えていた。南無阿弥陀仏。帰宅する前に、本堂におまいりした。
(おっとん16)
投稿者 Kosodate : 08:53 | コメント (8)
「うわあああー疲れとんしゃあ」
ある観光地にでかけたときのこと。私たちを含め4組の乳幼児を連れた夫婦が、トイレの前で遭遇した。
4人の嫁さんが、それぞれ、わが子を連れてトイレに入る。おそらくオムツ換えするために。後に残ったのは、私を含めて4人のパパだった。4人とも思い思いにベンチに腰掛けている。
嫁さんたちの姿はトイレの中に消え、周囲には男親しかいない。その瞬間、私を除く3人のパパは、まったく同じ動作をとったのだ。
「はふうううううううう」
「はあああああ」
「ふううううううううううう」
3人が3人とも、首をがっくりと下げ、ためいきをついた。両手で頭を抱え込むパパもいる。「がっくり疲れた。ああ大変。家族旅行はいいけれど、あすから仕事だどうしよう」という声がきこえてくるようながっくりぶりなのだ。
嫁さんの視線が消えたこの瞬間に、真実の表情が出たというべきか。見たところ、3人とも20代パパである。私よりも相当に若い。ほんとは、まだまだ自分自身が遊びたい年なのかもしれない。若くして、パパになってしまってはいるが、家族のために働かないとならないし、休日ともなれば「どこかに連れて行ってよ!」と迫られ、家族サービスもしないとならない。ここまで車を運転して家族を連れてきたかもしれないし、それって、かなりキツイのかもしれない。
子供をだっこしたり、カメラで記念写真をとったり、ベビーカーを運搬したり、買い物の袋を持ったり、普段は育児を嫁さんに一任している罪滅ぼしの気持ちもあるのだろうか。文句も言わずに、ここまでやってきた。それにしても、いったい俺の人生ってなんだろう。そんな気持ちの表れが「はあああああ、ふううう、はふうううう」のため息につながったのだろう。
50台パパの私は、体力的には確かにきつい。20代パパの比ではない。抱っこをつづけると腰痛はするし、肩車はできそうにもない。足はヨロヨロ、腰はガタガタなので無理もできない。
だが、私が、20代パパより優位な点は、ひとつだけある。子供にめぐり合うまでに長大な時間を要している。半ばあきらめ予期していなかった「子供がいる生活」を、楽しむ余裕ができている点なのだろう。20代のころも30台になってからも40台になってからさえ、子供が苦手だったので、もしもそのころに子連れ家庭を体験していたとしたら、3人のパパと同様に、妻子がトイレに消えたあと、頭をがっくりと垂れていたかもしれない。
50台が近づき「子供がいたらどんな生活だったのだろうか」と過去形の仮定で想像していたところに、ひょっこりと子どもが生まれて、現実に子育てをすることになった。今は貴重な体験の日々を送っている。そのために、がっくり頭を垂れている3人の20代パパを見ながら「いやああ。みなさんタイヘンですなあああ」と客観的に同情する余裕さえ生まれているのだ。
「疲れてますなあ。みなさん。本音のところ、休日は自分で遊びたいでしょうなあ。独身時代のように。でも、家族がいるし、パパだし、そんな身勝手できないっすよね。可愛い子供は泣きもするし、寝てもじきに起きるし、子供の都合で生活は進むし、嫁さんは生活に追われてたりするし、いろんなストレスもあるだろうなあ。嫁さんのストレスは、パパにも向かってくるだろうし。あなたは会社で昼はいないでしょ。私は一日中、子育てしてるのよ。俺だって働いているんだ。でも、自由な時間だってあるぢゃない。あたしはねー!キイイイイッ!てな展開もあるでしょうなあ。まあ、がんばってくださいね」
などとガックリ3パパに、心の中で激励の言葉をかけていると、トイレの中から下半身裸の子供を連れて出てきた嫁さんが「おむつを持ってキテと、何度もいったとに、何でもってきてくれんと!モオオオオオオ。なああああんも、聞いとらんとやから!イライライライライライラ怒!」キイイイイイイイッーとなっていて、ありゃあ、しまった。
でかい声で嫁さんに癇癪をぶつけられた。ガックリ・パパ3人は驚いて、頭をあげてこちらを見た。3人のガックリ・パパから同情の視線を一身に集める私であった。
(おっとん16)